桂枝雀 名言数 11

1939年8月13日 - 1999年4月19日
桂 枝雀(かつら しじゃく)は上方落語の名跡。2代目の死後は空き名跡となっている。 なお、以下の各代以外にも、昭和10年代の寄席ビラに枝雀の名が確認できる。色物だったとされているが詳細は不明。 本項を参照。 3代目桂米朝門下。前名は10代目桂小米。本名: 前田達。59歳没。...-ウィキペディア

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ずっと笑いの仮面をかぶり続ければ、いつかその仮面が自分の顔になる

桂枝雀は1973年のある日、重いうつ病を発症した。
家庭ができて将来に対して過度なプレッシャーを感じ、また自分の芸に対しても極限まで思いつめるところがあったという。全ての事が悪い方にいくように思えて仕方なく、食事も取らず、風呂も入らず、顔は青ざめ、家に篭りっきりになってしまった。夫人には「自分は幸せにしてやれないから別れてくれ」と泣いて頼み込むこともあったという。いくつかの病院を回ったが、処方箋を出されるばかりで快方に向かわなかった。最後にいった病院で「今必要なのは休息です。薬はいりません。自分が不安に思っていること全て話してください。そしてまた不安になったらいつでも来てください」と言われ、胸がすーっとなったという。3ヶ月間のブランクを経て、小米は高座に復活した。そして、それまでは私生活で陰気に過ごしていた時も、この言葉を高座で話し、常に陽気で明るくいることを決意した。
その高座でその後
「うちに倅が二人います。この間『どう、お父さんの仮面、だいぶ身についてきたでしょう』って言うたら、下の方の倅から『うん、かなり良くなりましたね。でも、チラチラ素顔が見えますよ』って言われまして、もう少し修行しなければならないと、思ったんです」
と続けて語ったという。

あれだけの女ちょっとないね。うん。
かわいい。人が見たらどや知らんけどわいが見たらかわいい。
(中略)

もう、あれ外したら他ないね。うん。
また、あれももらい手ないやろけどね。

これは、「替り目」での酔っぱらいの嫁さんの述懐での言葉。
これには、かつら枝代夫人(本名前田志代子)像ともいえます。
中略部分の中でも、
「ありがたい。根が陽気や、うん。
ほんまやで、わいらみたいね妙にまじめな人間はいかん。
落ち込む時がある。
あれええね。落ち込まん。落ち込む穴がないのやね。」
「不思議な女やねぇ、ふぁー、ふぁー、いうてね、
 『一緒に死んでくれぇ』
っちゃなこと言うても、
『イヤ』っちゃなこと言うてね、
『うちは生きていく』
ちゃあ言うねやあれ。」
「酒飲むことも、『あんた飲めんようになったら仕方ないけれども、幸せにして、飲める時は飲んでください。
それで気が発散すれば、それが何よりですよ』・・・
わい毎晩飲んで帰る。
考えたら酒飲みの世話するためにいるようなもんやね。」
「そんなこんなで年取っていくなんね。
因果なもんや。」
「腹の中では
『すみません、ありがとうございます』
っとこう言うけどね、
顔見たらそういう甘いとこ見せたらいかん。
顔見たら
『バカーッそっちぃ行けー!』
言うて、腹んなかでは
『ごめんなさい、ありがとうございます』・・・」
嫁さんがまだ表にいて立っているのに気がつくと、
志代子夫人のいる下座の方に向き直って、
「お前、聞いてるのか!
早う行け、こらっ!」
「ウーーン、みんな聞かれてしもたー。
どんならん。一生の不覚やね。」
と照れ隠しに喋った。

私がモテることを知らないのか - 銘無き石碑
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わたしはまぁ、生来あんまりおしゃべりせん方でございます。
時期時期やナシにね、ずっと、生涯を通じてですね、あんまり、おしゃべりせん方ですね。
だからもう終局はホントにねいつも言うように、だまーって座ってんとねぇ、みなさんもね、嬉しいなー、っていうようなねぇ。
なってくれはったら一番ありがたいなと思ってますもんね。
いや難しいことですけどね。

師匠はよーう、おしゃべりになりますなぁ。

古典落語を現代的価値観・感性で表現しなおす野心的努力を高く評価され、又「己を語る」独自の型を発明し、天才と称される一方その荒唐無稽、破天荒ぶりから
「異端児」
という評価も受けた、
故・立川談志。
枝雀も又、襲名後あまりに変貌した軽く見れば破天荒な芸風から、「異端」の評価も受けた稀有の落語家であり、談志は枝雀の芸を「好きになれない」と低い評価をした一方、「緊張の緩和理論」を支持する、また遅れてであったが「SR」に「落語界の研究議題になる」とその演目の中に息づく「訳のわかるようなわからないような」理屈「のみ」に興味を示し、その理論的な芸風からどこか親交もあった。
(枝雀本人は談志を毛嫌いしていたようだが)
上記の名言は、談志との対談で枝雀の言った皮肉である。
対談が始まっても、両名とも何もしゃべり出さない。
仕方なくその沈黙から、前文部分の自分の芸の理想を「語る」とそう言った。
因みに談志は、
「圓楽ほどじゃないけどね….」と返して「黙っていての凄さ」から逆の自分の理想を語った。
枝雀「師匠は正直な人ですねぇ。言うたはることに嘘がありません」
上同人「正直に、あんまり沢山ものを言えるというのは凄い事でっせ」
談志「嘘と言わないでね、それやっぱり、建前も大事でね、本音と建前のバランスが取れてんのが一番大事でね俺みたいに本音をあんまり喋んのは人にも勧めないけどね、落語っていうのは本音を語る稼業だと思ってます」
上同人続けて「貴方の場合はどっちかというと人を愉快にさせる、俺はそうじゃない、不愉快にする。問題提起するんだから不愉快でしょ。観客をいい気持ちにするんじゃない。同じレベルにおいてね、『どーだ観客俺のぶつけたテーマを、どう受け取ってくれるんだ』っていうのが、だから落語って錯視をやってんじゃないの、自分の人生を落語と同じように暮らしている、ね。」
などの名言をここでだが残しておく。
人を愉快にさせるという「王道」のような「悪魔」のようなもののため型にはまらないスタイルで「爆笑王」の名をほしいままにした
桂枝雀・99年没。
又、古今亭志ん朝・01年没、
三遊亭圓楽・09年没、
そして2011年11月21日、
立川談志。
「(志ん朝は)さっさと死にやがって、俺は死にたくても死ねないのに…。志ん朝と言い、枝雀と言い、俺がライバルと思ったやつはみんな先に死んでしまう。死なれちゃあ、勝てないじゃないか」
と枝雀の自死を悼む、
自殺願望さえあった談志は死後なお、ファンを生む存在となり、落語界の大墓銘に刻まれる。

足の指先は、座布団から離さない。

その破天荒な芸風は、自身の心のベクトルをそのまま表していた。
ところがその中には鬱を呼び起こす程の理屈理論が渦巻いてもいた。
毎回観れば風味を少しコロコロと変えて行く高座。
その一方で芸のこだわりもとても強かった。
理屈を使うことで芸に強靭な基盤を固める。
だが同じく理論派噺家、立川談志を少し嫌悪するほど理屈嫌い。
そもそも人の話をじっと聞くことができなかった。
でも落語や笑いについては長々と話せ聞けた。
どうだろう、この矛盾。
芸のこだわりといえば多かったが、ほぼ厳則になっているのが上記のものである。「親子酒」で高座から転げ落ちる時も座布団を抱えて落ちたとか。
もともと落語にルールがあるわけではないが、春風亭小朝が指摘するように「師匠の芸風はまず東京に行けば直される」
そして「芸にはある程度の決まりがあるものだが、枝雀師匠は『座布団から離れない』以外は全部壊していましたね」...と。
つまりそれは最大限ルールを壊した結果であったという。
もし、枝雀が再び鬱に打ち勝ち、落語を続けていたとすればどうしていただろう。
座布団を飛び出す、振り回すなど一層パワーフルな高座か。
米朝の如くキッチリとした正統型に戻ってしまうのか。
それとも本人の願望であった、志ん生のように、黙っているだけで様になり、最高に笑える最終形態か。
その三通りの答えをこれからの若手が導き出してくれるに違いない。
最後にこの名言はNAVERまとめより、tatakauhito兄のご投稿から執筆したことを白状する。有難うございました。

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